あなたのハートにゲーゲンプレス

サッカー戦術について整理します

上野山監督兼GMの辞任について①

〇上野山監督兼GMの辞任について



〇はじめに
 2021年3月31日、突然の上野山監督辞任ニュースは、サポータ間おいて、様々な反応が見られた。
 表面上は、カマタマーレ讃岐の監督辞任・GMが、成績不振で辞任となった事実が取り上げられただけのJリーグにはよくあるニュースである。Jに限らず、プロサッカーの世界は、成績がすべてである。選手も厳しい競争の世界にある中で、監督も成績次第でクラブから肩たたきにあい、解雇されるか、監督自ら辞任するか、どちらにせよ遅い早いこそあれども、成績次第で監督交代に至ることは極自然で当たり前の、プロがしのぎを削る厳しい勝負の世界を垣間見ることができる毎年恒例のJリーグニュースのひとコマである。


 ところが、監督辞任が初めての経験となったカマタマーレ讃岐サポータ達は、騒然となり、多種多様の反応が見られた。
 実は何を隠そう、毎年成績不振の弱小カマタマーレ讃岐には、未解決の課題が山積みされていて、その未解決問題の奥の奥、表向きにできない問題のほんの一部、氷山の一角が、世間一般に露呈されただけなのである。


 今回の上野山監督辞任に至った謎を紐解いていくには、カマタマーレ讃岐のクラブ組織と、カマタマーレの生い立ち、歴史と、カマタマーレ讃岐の現在のバックボーンと未解決の課題を紐解いて初めて、今回のGMが自己解任に至る経緯が理解できるのだが....
 そして、上野山監督辞任に至らしめた、現在のカマタマーレ讃岐は、なぜこれほどまでに伸び悩み、停滞しているのか、万人に理解できるように説明したいと思います。 


少し話が長くなりますので、何回かに分けて書きます。
最後まで読んでいただければ幸いです。





〇2006年までの香川県のサッカー
 はるか昔を振り返ると、歴代の香川県は、1種だけでなく、2種、3種、4種共に、四国内では良い成績を上げてこられなかった。高校サッカーの舞台、全国高等学校サッカー選手権大会にしても、1981年にようやく各県1クラブ出場となる前は、四国から2校の出場枠に対し、徳島県勢や愛媛県勢に香川県勢は歯が立たず、香川県から出場することが難しかったと言う事実がある。1981年以降も、出場はできてもほぼ1回戦で敗退していた。香川県は、30~50年前の先輩方OBまで、長期に渡り、香川県は四国のレベルと比較しても、全国のレベルと比較してもサッカーが弱かったのである。




〇2006年カマタマーレ讃岐発足
 カマタマーレ讃岐は、元々、香川県1種、社会人クラブであった、高松商業高校サッカー部のOBチームからスタートしている。香川県内では最強クラブであったが、四国リーグ内だと最強というわけでもなく、四国リーグと香川県リーグを往復する香川県No.1の社会人アマチュアクラブであった。
 そんなアマチュアクラブが、あるとき突然Jリーグを目指すことになった。


 時代の背景は、2006年、ドイツワールドカップが開催された年まで遡る。神様ジーコ監督率いる日本代表が、ケーヒル・オーストラリアに逆転負け、まだ控え選手だったモドリッチ・クロアチアと引き分け、神様の母国ブラジルと対戦しボコボコに負け、1勝もできないまま予選敗退してしまった年である。サッカー好きな方であれば、試合後、仰向けに倒れこんだ日本のエース中田英寿がW杯を最後に現役引退し、当時流行った「自分探しの旅」に出てしまった事は、強く印象に残っているだろうか。


 実は、2006年は、日本サッカー協会主導で、各県に4種、3種、2種とリーグを整備・設立する過程にあった。香川県サッカー協会も、香川県から日本代表を輩出・育成すると希望に燃え、県内のサッカーリーグ改革に着手した年である。


 極自然の流れとして、香川県サッカー協会は、香川県のトップチームであった、「高松商業高校サッカー部のOBチームを、香川県を代表クラブとし、Jリーグを目指すクラブ」とすることで、香川県サッカー協会、全員一致で、全総力をあげて後押しすることになった。


カマタマーレ讃岐(NPO法人)の誕生である。


 まず押さえておきたい事実、2006年は、香川県で一番サッカー協会が大仕事を成し遂げた年なのである。




〇2006年以降の香川県勢
 2006年までは弱かった香川県勢も、2006年を境に、サッカーの指導者の質、選手の質が飛躍的に向上し、香川県の中でも実力上位の、香川西、大手前高松は、全国高等学校サッカー選手権大会においても、2回戦、3回戦まで勝ち進むことができるようになってきた。


 また2021年、喜ばしい事に、2種の香川県Aリーグの上、「四国プリンスリーグ」の10チームにおいても、カマタマ―レU18、大手前高松、香川西、尽誠学園、と10チーム中4チームが香川県勢となっており、四国レベルでは、徳島2チームや愛媛2チームや高知2チームに対しても優位な成績をあげており、4種、3種、2種の指導者のレベルの大幅な向上があったことを顕著に示している。


 つまり2006年以降、香川県サッカー協会は、サッカーの底上げという役割を確実に実行して、目に見える成果を残していると言える。
 近い将来、香川県から「四国プリンスリーグ」より上、トップ20クラブが集うリーグ、既に2種登録選手済み、J内定選手などもごろごろ、まさにJリーグの登竜門とも言える「プレミアリーグ」に達するクラブが、香川県勢の中からチャレンジできるレベル、見通せるレベルになってきていると言える。
 また、学年別代表ではなく、全国のトップオブトップの選手が集まる「U18日本代表」「U23日本代表」、そして「フルA日本代表選手」が香川県から誕生するという夢に、とうとうあと1年かと、浮足立つほど現実味がでてきているのである。



では、次回は、2006年当時を詳しく振り返ってみたい。